ある奥様のお話
子供が大きくなって、ようやくにして少しずつ自分の時間を持てるようになってきた頃から、
更年期障害を迎えることとなり、いつも体も心も重くてだるくて、
いつしか人と口をきくことも避けるようになっていました。
仕方なく嫌々やっている家事に対する主人の母やほかの家族からの駄目出しが、
私には実際以上に冷たくひどい言い方にしか聞こえず、
食器の洗い物を投げ出して部屋に閉じこもることが日常となりました。
私抜きで家族同士が声をひそめて話をしているかのように感じられて私のいられる場所が無くなり、
もう何もかもが嫌になってしまっていました。
ある日のこと、道を歩いていて気が付くと、
向こうから主人と子供が連れ立って帰ってくるとこでした。
慌ててとっさに隠れるように飛び込んでところが、たまたま私の実家のお墓のあるお寺の境内でした。
境内の入り口で物陰に隠れているわけにもいかず、本堂前で合掌をし、
そのまま本堂裏の墓地へまわり、長年の習慣からか、気が付けばつい家のお墓へと来てしまいました。
どうしても嫁ぎ先のお墓参りの方が優先となっているので、
こちらには年に何回かお参りに訪れる程度だったのです。
お花もお線香も無しに、実家のお墓にぬかずき、
私がまだ幼少期に亡くなった母に向かって今の苦しさを訴えている私でした。
そうしているうちに、だんだんと心が落ち着き、
いつの間にか1時間ほどの時間をそこで過ごしていましたが、
不思議なほど気持ちが浄化され、いつになく清々しい気持ちを取り戻すことが出来ていました。
昔に母の兄から、
「お前のお母さんは死ぬ間際まで、お前が不憫で可哀そうだと泣いて、
自分なき後はお前のことをくれぐれもよろしく頼むと、
俺の顔を見るたびに拝むようにして頼んだもんだ」
と何度も聞かされことなどがまざまざと蘇ってきたりしました。
「この娘のためなら自分の命に換えてでも、この娘に立派に成長してほしい」
と兄に訴えたという母の心情と、
私に反発するばかりの私の娘に対する今の自分の心情を、
考えない訳にはいきませんでした。
本当におぼろげな記憶しか残っていなくて、写真が頼りの母の表情を思い浮かべ、
改めて幼少の娘を残して逝こうとしている母の心情に思いを馳せていたのでした。
ご先祖様は見守っていてくれている
子孫の繁栄を願い、
命のリレーを絶やすことなく頑張り抜いて下さった長い先達による歴史に支えられて、
私たちの現在の生活があるということは客観的な確固たる事実です。
私たちに命を引き継がせてくれたそのご先祖様は、
沈黙のうちに、草葉の陰からいつも私たちを見守っていてくれています。
そのことに確信が持てることが心の支えとなります。
そのことに感謝しつつ生活している人生と、
糸の切れた凧さながらに風に吹かれるままの人生では、
そこに雲泥の差が出てくるのも当たり前のことですね。