板橋区の墓石
板橋区は東京都のやや北西に位置していて、人口54万人で23区中の7番目、面積では32k㎡で同じく9番目の区です。
区内全域は武蔵野台地の北端にあたり、概ね北部は低地で南部は台地となっており、
区の北側において荒川や白子川によって埼玉県と接しております。
武蔵野台地北東部と、荒川低地を併せ持つ板橋区の地域は、昔よりその豊かな自然環境に恵まれていたことから多くの人々が生活し、文化を育んできたところでした。
現在の板橋区の小茂根・西台・成増地区においては、古代より人々が生活をしていた痕跡が見つかっており、貝塚跡なども発見されています。
平安時代までの遺跡については数多く見つかるものの、それ以降の板橋を知るための遺跡や資料は極端に少なくなります。しかしながら古文書によると、この時代では石神井流域を中心にまず豊島氏一族が区内を支配し、室町時代中期になると、武蔵千葉氏が赤塚城・志村城を拠点に勢力を伸ばしていったと言われています。
さて、そんな中において板橋区が発展し始めたのは、江戸時代に入ってからです。当時関ヶ原の戦いに勝利し、幕府を開いた徳川家康は、江戸を中心とした交通網の整備に取り掛かりました。
この時、五街道のひとつである中山道の第一番目の宿場が板橋宿で、脇街道としての川越街道の宿場が上板橋宿でした。当時の宿場の役割は、物資の中継や宿泊が中心でしたが、その一方で飲食や物資の消費も発生することで、これらの宿場町としての発展が進みました。
墓石といえば霊園やお寺の境内墓地に墓地区画を求めなければ建て用がありません。
しかし区内には都営霊園はなく、民営の霊園もあまり多くはありません。従って墓石を建てる為の墓地を求めようと思う方は、隣接の埼玉県で霊園の墓地区画を求めるか、区内のお寺さんの境内墓地に墓石を立てるかの選択となる場合が多いようです。
板橋区内には本寺格(本山格)となる寺院はないものの、浅草橋場から移転してきた総泉寺といった中本寺格の寺院はあります。曹洞宗寺院である総泉寺は、かつて江戸時代には境内2万8千坪もの広大な敷地を持ち、曹洞宗系単立の江戸三箇寺の筆頭を務めていた由緒あるお寺です。関東大震災で大部分が焼失後に現在地の板橋区に移転してきたと言われています。境内の湧き水が有名で、かつては八代将軍吉宗がこの湧き水のあまりの美味しさに、清水薬師と命名したほどでした。
板橋区にはこの総泉寺を初めたくさんの素晴らしい寺院が存在しています。
さて、そんな板橋区でお墓探しをするにも、お墓を建てるにしても、交通の便の良さのチェックは欠かせません。
そういった意味ではこの板橋区はJR埼京線・都営地下鉄三田線・東京メトロ有楽町線及び副都心線・東武鉄道東武東上線と言った複数の路線が区内を走っています。
例えばJR埼京線なら同じJRの山手線と連絡をするため、山手線を経由することで板橋区周辺の寺院や霊園に向かうことは容易ですし、都営地下鉄三田線であれば目黒駅から直通で板橋区内に入ることもできます。
もちろん板橋区は鉄道路線だけではありません。板橋区内では国際興業バスが区内のほぼ全域で運行されているため、『電車で最寄り駅まで向かってそこからバスで目的地へ』という移動ルートを使うことができます。
板橋区周辺でお墓参りを行う場合、これらの交通機関を有効に利用することで、快適な移動ができそうです。
石の武蔵家では、板橋区の寺院・霊園に墓石を建てたいとお考えの皆様に、墓石を建てる上で重要となる寺院・霊園の優良墓地情報を提供しております。どれも石の武蔵家が自信を持ってオススメできる場所となっておりますので、板橋区に墓石を建てる際には、是非ともご相談下さいませ。