生前にお墓を建てるって不吉なこと?
もともと、死にまつわるイメージから、
墓場やお墓そのものは怖いとか不吉だと敬遠されがちではありますね。
でも実際には、肉親を失った深い悲しみや言葉では言い尽くせぬ喪失感といったつらさも、
お墓を建てて供養することでその悲しみに区切りをつけ、
現実の生活に対処していけるように遺族の心の安寧や癒しをもたらしてくれているものなのです。
また、良く有る話として、
「生前にお墓を建てるなんて縁起が悪い」という方の大方のご意見としては、
「そんなことをするから誰かが急に亡くなってしまうのだ」というものです。
確かにそのような生前に建立された方々の中には、その数年後に他界したといったことも数多くありました。
しかし、そのご遺族から「お前が生前の建立を勧めたからだ」という、
お叱りや恨みごとを言われるようなことはたったの一度もありません。
むしろ、生前にお陰様で準備しておけたのはとても良かった、というお言葉は数多く聞いてまいりました。
それは会社のどの同僚においても同じなのです。
生前に自分のお墓をあらかじめ用意しておけるということは、
精神的にも経済的にも余裕があるということに他ならないために、
古代中国以来それは吉祥とされてきました。
ですから、あまり短絡的に「お墓を建てる=死、死=不幸」と思い込んだり、
そこから目を背けたがるのも、ちょっと消極的で情緒的に過ぎる態度なのではないでしょうか。
誰であっても生きている限り、いつか必ず死は訪れます。
その冷厳な現実から目を反らそうとせず、
むしろ、だからこそ前向きにより充実した今を生きようとする生き方の方が、
格段に素晴らしい充実した幸せな生活に繋がる態度なのではないでしょうか。
またそのような人生に対する態度こそ、しっかりと子供たちや子孫に伝えるべきものなのではないでしょうか。
どのくらい強く子孫の倖せを願うことができる?
一般的に、お墓は大切に護るべきというのが大方の皆様のご意見でしょう。
でも、春秋の彼岸やお盆などのお墓参りの光景を長年見続けてまいった立場からすると、
近年では、一家そろってのお墓参りという姿は次第に見受けられなくなっています。
いつからか中高年の方や老年の方、
ご夫婦だけだったりお一人だけだったりというお参りの姿が目立つようになりました。
また、いかにもそそくさと形式的なお参りで済ませて帰る様子からは、
あまりご先祖との魂の触れ合いを求めているようには見受けられない、寂しいお参りの風景もあるようです。
お墓は一族の過去と現在と未来を結ぶ大事なところですが、現代にあってはそれが薄れてきて、
あたかも単に「お骨」の収納場所でしかないよう扱いとなってしまっています。
もともとは、私たちに生命を授けてくれた親やご先祖に向けての感謝の念が、
たとえ無意識のなかでも、必ずある筈なのですが、
いつからか私たち家族の生活の場で、
そのことを確認し伝承していく機会がどんどんと減ってしまいました。
初詣に出かけたり、神社やお寺さんに「お陰様で」と頭を垂れることは、
人として生きていく上で大切な姿勢ではありますが、
良く考えてみれば自分の命を授けてくれたのは両親であり、
その両親を産んでくれたそのまた両親たちの存在があってのことです。
時に自己犠牲を払ってまでも、子孫の繁栄を願い、
命のリレーを絶やすことなく頑張り抜いて下さったご先祖の存在があってこそ、私たちの現在があります。
私たちに命を引き継がせて下さったそのご先祖様は、
沈黙のうちにも草葉の陰からいつも私たち子孫を見守っていてくれています。
「お墓のことはいずれ将来のこと」
「万一何か起きたらその時に遺された者が考えれば良い」
という消極的な姿勢で送る生活は、余裕を持った生活とは言えず感心出来るものではありません。
それよりも本来の自分たちの生活は誰のお蔭によるものなのか、
子孫たちの安定と繁栄を約束するものは何なのか、
そもそもお墓は不吉なお骨の収納場所に過ぎないとの考え方で良いものなのか、
是非一度、いずれは必ず自分たちが入ることになる「お墓」について考えてみて下さい。
そして、自分達を間違いなく無条件に守ってくれる存在としてのご先祖様に感謝をささげる場がお墓参りですから、
そうした姿を子供たちに見せながら育てることこそが、
取りも直さず子供たちの繁栄や安定を約束することになるのです。
『だって、私達子孫の安泰や発展を、最も強く、
いつも願ってくれている存在があったからこそ、現に今の私たちがあるのですよ。』
と聞いて育つ子なら我儘勝手な大人にはなりようがありません。